合氣道真生会川崎高津道場 活動報告

2021.12.28

なぜ合気道で袴(はかま)をはくか?

それは、「武道は心身の修業」、「道場は神聖な空間」という伝統的な理念があるからです。袴は日本の歴史において長く正装、礼装に用いられて来ました。

現在の合気道では有段者、ないし指導者のみが袴をはくことになっている団体も多く、稽古で袴をはく理由は何か、意味はあるのか、疑問に思っている方も少なくないようです。

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「足さばきを隠すため」と説明されることもありますが、他人の足さばきや重心の位置くらい稽古していれば袴の上からでも簡単にわかるようになるので思慮の浅い誤った説明です。合氣道開祖・植芝盛平翁先生はそんな小さい考え方はしなかったでしょう。そもそも指導者や有段者は手本を示して教えるべき立場ですから、それが「隠すため」稽古で袴をはくのは明らかにおかしなことです。

逆に「初級者に袴をはかせないのは指導者が足元を見づらいから」、と説明されていることがありますが、袴の上から重心や足さばきがわからないようでは指導者としての能力が疑われます。

ところで、「袴を履く」と書いて説明している方もいますが、「履く」は靴やサンダルなど履物に用いる漢字なので誤りです。袴やズボンは「穿く」と書くのが本来です。

それはさてき、おそらく武道の袴姿に違和感を持つ方は「武道=柔道や空手」のイメージが強すぎるのではないかと思います。剣道、なぎなた、弓道、居合道、杖道などなど、袴をはく武道はたくさんあります。

江戸時代以前から伝わる古武術では剣術、槍術などはもちろんですが、体術(柔術、和術、拳法etc)の諸流派でも袴をはいて稽古するのが一般的です。昔はむしろ「袴をはいているのが普通」でした。武術が広く普及した江戸時代の身分ある武士は、自宅以外ではほぼ常に袴をはいていました。ある武士は友人宅を訪れた際、「袴を脱いでくつろいだ」ということをわざわざ日記に書き記しています。それだけ、「袴を脱ぐ」ということが普段ではなかなか無い異例のことだったということです。

〈 武士の像 (熊本) 


当然、武士にとって大切な技能である武術の稽古の際も袴をはいていました。そもそも江戸時代には袴の下に現代の柔道着、空手着のようなズボンをはく武士はいませんでしたので、袴を脱いでしまえば着流しになってしまい、ヒラヒラしてむしろ武術修業には不都合です。現代の柔道、空手に見られるようなズボン状のものは職人、行商人など庶民の労働者がよく着物の下にはいていました


〈 1800年代初頭の江戸の様子 〉

〈 着流し姿の武士 〉

日本の男性が「袴」と呼称されるものをはきだしたのは今から千数百年前の飛鳥時代ごろの宮中からのようで、はじめの頃は現代の袴のように裾は広がっていませんでした。どちらかというと「太めのズボン」といった感じです。それが平安末期頃には主に武士の間で現代のような裾の広い袴が用いられるようになりました。現代の感覚では裾が広いと動きにくいように思いますが、当時の絹や麻の衣服は伸縮性がとぼしかったので、日ごろから走ったり馬に乗ったり行動の激しい武士にとっては始めから裾が広く足の動きに自由が効く衣服の方が好都合だったのかもしれません。慣れてしまえば袴で活動するのは意外と楽なものです。


女性はどうでしょう?女性の袴姿と言えば、大学や短大の卒業式衣装、そのルーツである明治、大正期の女学生さん(「ハイカラさんが通る」って大正時代が舞台のマンガ・アニメを知りませんか?大好きでした(笑))、神社の巫女さんなどが思い浮かべられるかもしれません。

実は女性と袴の歴史も大変古く、既に1000年以上前の平安時代の貴族の女性はいわゆる十二単(じゅうにひとえ)の下に赤色の袴をはいていました。紫式部も清少納言も袴をはいていたのです。当時の様子を今に伝えるひな人形も、よく見るとお雛様と三人官女様はちゃんと袴をはいています。ちなみにお内裏様は「太めのズボンのような袴」をはいていると思われます。

しかし人口のほとんどを占めた庶民や武家の女性は長らく袴をはく習慣がなかったので、明治時代に女学生の通学衣装としてより活動的であるために袴を採用しようとした際には、男性の権威主義者たちが「女が袴をはくのはおかしい!」と猛反発したそうです。それを、「宮中の女性は古くから袴をはいていますよね?」とやりこめたというエピソードが伝えられています。明治期は正に天皇の権威を絶対化させようとしていた只中ですから、宮中の先例を持ち出されたら誰も反論できません。今や卒業式の定番衣装である女学生の袴姿は、今よりはるかに男性優位であった古い日本社会の中で、女性が勇気と知性によって勝ち取った進歩と発展のユニフォームであったわけですね。

武道の世界における袴からズボンへの転換は、明治15年に嘉納治五郎先生が創始した柔道が時代的に早い例だと思われます。嘉納先生は東京帝国大学、即ち今日の東大出身の進歩的な知識人ですから、欧米的近代スポーツの観点から動きやすさ、普及効率などを優先したと考えられます(ただし嘉納先生も公の演武では袴を着用しています)。空手は明治に入るまで外国だった沖縄(かつての琉球王国)で継承された武術なので元々袴をはきません。かつての琉球王国の文化や風俗はむしろ中国の影響が強く感じられ、空手も昭和初期までは「唐手」と書かれていました。

〈 1500年頃の琉球王朝の様子 〉

柔道、空手はむしろ特例で、武士の時代が終わり、明治以降となっても多くの武道は袴の着用を続けました。それは前述のように「武道は心身の修業」、「道場は神聖な空間」という理念があるからです。単に体を鍛えるだけのトレーニングとは存在性が違うのです。明治後期から終戦まで大きく活動した武道の統合団体である「大日本武徳会」の指導書の中には「道場は神殿なので猿股(道着のズボン)で入ってはならない」という一文がありました。

合氣道も戦前の頃は入門から全員が袴をはいていたようです。今ではほとんど見かけませんが白袴の人も多かったそうです。ただ白袴はすぐ汚れが目立って困ったという話もありますが・・・。また合氣道は、戦前の武道界では珍しく女性の稽古者も多かったため、当時の社会性として女性の足元を隠すのにも袴は有用であったと考えられます。

それが戦後になると袴をはかない稽古者が多くなりました。今では多くの団体で有段者、ないし指導者のみが袴をはくことになっています。袴をはかなくなったのは戦後しばらくの日本の困窮、物資不足も要因の一つかもしれません。現在、合気会本部道場(新宿区若松町)のある東京は度々空襲を受け、多くの人が家族や親類、友人を亡くし、家や財産も失いました。若松町の道場は戦災を免れ細々と稽古は続けていたものの、一度の稽古に参加するのは数名程度で女性の姿はほとんどなかったと言います。終戦直後は戦中以上に物資が欠乏し、多くの人が日々生きるだけで精一杯だったと伝えられています。そのような中でなんとか合氣道を続けていくためには「袴は後からでもいい」、判断されたとしても仕方のないことだと思います。

〈 焼け跡でのバラック(仮設の小屋)生活 〉

  

現代でも袴はネット通販のでも5000円前後と決して安価なものではありませんが、社会人ならがんばれば買えないものではないでしょう。一人暮らしでバイト生活の学生さんなどではちょっと大変かもしれませんが・・・。できれば稽古にはなるべくちゃんとした装いで臨むことが好ましいと思います。私たちの合氣道真生会では入門から全員が袴をはくことが基本になっています。


さらに、普段から袴をはいて稽古していると足がバタつかなくなり、重心が安定して技の上達につながる可能性があると思います。ある外部の方が自分たちの合氣道を見た際、「歩くときに腰が上下にブレずに安定している」、という感想を述べていました。色々考えて、その理由の一つが袴にあるのではないかと思ったのです。とすると、袴をはかないということは、上達できる方法を一つみすみす捨ててしまっていることになるので、非常にもったいないことだと感じます。

その他にも、かつての武士と同じように袴をはいて行動することで実体験を通して歴史、伝統文化への理解が深まりますし、和服を着る機会があった時にもスッと姿勢や所作が決まります。これが慣れていない人だと腰がヒョコヒョコしてなんとも貧相な様子になります。たとえ和服を着ていなくても、和室での立ち居振る舞い、座敷での食事、お茶会など、和の文化、和の空間に入った時に普段から袴をはいている人とそうでない人とでは所作の落ち着きが違います。

〈 江戸時代の武士の部屋 〉

日本武道に強い興味を持つ海外の方は少なくありません。そこには格闘技としての興味だけではなく、日本の伝統文化への興味が多分に含まれていると思います。そんな方々に、映画や漫画からお侍さんが飛び出したかのように、袴をサッとさばく立ち居振る舞いを見せることができたら、きっと喜ばれると思いますよ。。

合氣道真生会川崎高津道場 吉見新

「るろ剣」、大好きです…(笑)

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