合氣道真生会川崎高津道場 活動報告

2015.07.02

合気流道訪問記

2015年6月13日(土)、神奈川県藤沢市の合氣流道愛神館を訪問しました。

合氣流道は、いわば合氣道の兄弟とも言える武道です。合氣流道は、合氣道開祖植芝盛平先生の直弟子であり、開祖自身のご依頼により「合気道開祖植芝盛平伝」(昭和44年・講談社/後、昭和56年に「武の真人」と改題し、たま出版より発行)を著した砂泊兼基(氣海)先生の門下にあった寺田氣山先生が創始した武道です。私(吉見)は「武の真人」を読みながら砂泊兼基先生について調べている中でこの武道の存在を知り、かつその道場の一つがそう遠くない神奈川県藤沢市にあることを知って訪問することを思い立ちました。

砂泊兼基(かねもと)先生は昭和初期に植芝盛平先生の門下に入っていますが(昭和3年に初めて出会い、その後間もなく入門したとされます)、その時期は合氣道の歴史の中ではまだ草創期とも言える時期で、当時合氣道という名称すらまだ用いられてはおらず、そのころの武道の姿が残されているならば、それは合氣道を研究していく上でとても興味深いことです。開祖が初めて独自の道場「植芝塾」を開いて自身の武道を教授しはじめたのは大正9年(1920年/開祖36歳ごろ)、京都の綾部においてであり、その6年後の昭和2年に門人たちの求めに応じて東京に移転し、しばらく住居も稽古場所も都内を転々と移動した後、本格的な道場として皇武館(新宿区/現合気会本部所在地)を開設したのは昭和6年です。武道の名称は、昭和初期においてはまだ固定されておらず、合氣武術、植芝流柔術、相生流、皇武道など様々な名称が時に応じて用いられていましたが、昭和11年に合氣武道という名称を用いるようになり、更に後の昭和17年に至って合氣道と定まりました。

なお、砂泊兼基先生の著になる「合気道開祖植芝盛平」が講談社より発行されたのは昭和44年2月、植芝先生が昇天される2ヶ月前のことで、植芝先生はその本を手に取られて「これでよい」と大変ご満足な様子であったとされます。

合氣流道愛神館は神奈川県藤沢市の小田急線六会日大前駅から徒歩10~15分ほどのところにあります。周囲は閑静な住宅外で、少し先には田園風景も広がっていました。

今回は実は事前の連絡がうまく取れず、見学を許して頂けるかどうか甚だ不安な状態で、HPの「見学歓迎」という一言のみを信じて道場に赴いたのですが、門前で関係者らしき女性に声をかけてみたところ「どうぞどうぞ」と気軽にお許しを頂くことができて大変安堵いたしました。

稽古は夕方6時から始まり、まず体操にはじまり受身の練習、そして膝行と続き、体操では私たちの合氣道でも行う動作に似たものがいくつか見られました。その後は技の練習に入り、まず合氣道の正面打ち一ヶ条、二ヶ条(座り技)に似た技を稽古されていました。手の動きや極(き)め方などはほとんど合氣道のそれと共通していましたが、打ち込みを受け止めてから技を極めるまで体さばきをほとんど行わず手の動きだけで技を行うことが多いように見られました。師範である田中先生ともお話させていただきましたが、合氣道も初期には体さばきは少なく、その場で相手の攻撃を受け止めて技を行う形が多かったようなので、その時代の技法を受け継いでいるのではないかと思われました。

その他に両手取りの技や袖取りの技を数多く稽古され、私たちの稽古する合氣道に共通するものもあればそうでないものもあり、それぞれに興味深いものでした。印象的であったのは座り技が多かったことです。近年多くの会派の合気道では座り技の稽古はやや減少していっている傾向を感じますが、開祖は座り技を大事にしていたことが多くの言い伝えから推察されます。またその弟子である砂泊兼基先生も、前述の著作の中で合氣道は座り技が基本であるといったことを強く述べています。

稽古は小休止を挟みながら1時間半ほど行われ、門人の方々は田中先生のご指導の下でじっくりと探求を深めておられる様子でした。田中先生のご指導も丁寧でとても勉強になりました。快く見学を許して下さり親切にいろいろなお話をお聞かせ下さった田中先生、そして門下の皆様に心から感謝致します。

道場の看板

道場。正面には砂泊兼基先生直筆の色紙も掲げられています。

「合気道開祖植芝盛平伝 武の真人」砂泊兼基先生著

合氣道真生会川崎高津道場 吉見

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