合氣道真生会川崎高津道場 活動報告

2021.06.02

合気道には色々な会派があります(+ちょっと幕末史)

合氣道には、合気会、養神館、心身統一会、万生館などなど、非常に多くの独立会派(団体、組織)があり、合氣道に関する考え方も稽古方法も大きく違います。段位や資格も会派ごとで認可しており、ほとんど横のつながりはありません。

自分の所属している合氣道真生会(本部:熊本)もそういった独立会派の一つです。いまいったい世界にいくつの会派があるのか、自分にもわかりません。何百か何千か、あるいは万に達していいるのか・・・。会派の規模も、何千、何万人という会員を抱えている大きな会派(おそらくそういう会派は10あるかないかでしょう)から10人にも満たない会派まで様々です。

会派がいくつにも分かれ出したのは昭和44年(1969年)の開祖のご逝去がきっかけで、その後しばらくの間に何名かの師範が独立し、さらにその門人、そのまた門人たちから多くの会派が生まれました。独立した理由は様々で、理念や技法の違い、道場の運営方針の違い、人間同士ですから気持ちの食い違いなどもあったでしょう。

なお、よく合氣道の「流派」、と言っている方もいますが、自分は合氣道に関して「流派」という表現には違和感があります。〇〇流合氣道と称している団体(道場)にも疑問を感じます。柳生新陰流剣術の流祖は柳生宗厳、二天一流なら宮本武蔵、北辰一刀流なら千葉周作です。みな、その「流派」を起こした人々です。武術諸流派において「流祖」は最も大切で絶対的な存在です。合氣道を創始されたのは植芝盛平翁先生(開祖)なわけですが、さて、○○流合氣道の「流祖」はどなたになるのでしょうか?

ところで先日、川崎高津道場に初心者の女性が体験に来ました。その方は少し前にテレビ番組で合氣道が紹介されているのを見てその身体操作方法などに興味を持ったそうです。ところがその番組で紹介されていたのは「心身統一合氣道会」という真生会とは全く違う会派でした。もちろん、一般の方にとっては「合氣道」に多くの会派があってそれぞれ違ったことをしている、ということは全く知られていないでしょう。普通ならば、入門してくれるかもしれない初心者の方がいれば、会派の違いなどは話さないか、「合氣道はどこでやっても同じだから大丈夫!」とか、むしろ「うちの合氣道の方がもっといいですよ!」と営業トークを並べてなんとか自分の道場に引き込もうとするでしょう(ましてうちみたいな常に存亡の危機にあるような零細道場ならなおさら・・・)。ですが、自分はその女性からのお問い合わせメールに対して、「もちろん体験は大歓迎ですが、その合氣道と真生会の合氣道はだいぶ違いますので、特にご希望であれば心身統一会の道場を探してください」と返信しました。確か近くのスポーツセンターでやっているところがあったようにも思いますし。

はじめに書いたように、合氣道は会派ごとで大きく中身が違います。どこでも同じと思って行くと、「ラーメンが食べたくて蕎麦屋に行く」ようなことにもなりかねません。もちろん、自分は先師の教えを受け継ぐ真生会の合氣道がとても好きで素晴らしいものだと思っています。一緒に稽古してくれる仲間は大歓迎です。しかしその人にはその人の希望があるでしょうから、自分の意見や都合を無理強いしたくはありません。その女性は一度体験に来てくれて、呼吸力の技や和合の理念に関して色々と興味も感じていたようですが、それ以降は来訪も連絡もありませんでした(※)。残念ながら十分にはお気に召さなかったようです。


入門しなかった理由はわかりません。稽古場所が狭いこと、同じ女性が一人しかいないこと、稽古の曜日・時間帯、会費などなど、様々な要因があると思います。他にもっと気に入る道場を見つけのかもしれません。以前体験に来た別の女性は、他にも女性会員がいるということで(当時、うちには女性会員がいませんでした)別の道場を選んだと後で連絡をくれました。自分のスタンスは「来るものは大歓迎、去るものは(涙を隠して)追わず」ですので、その気のない人に無理に入門をすすめることは絶対にしません。まあ、色々とごまかして入門してもらっても、それでは長く続かないでしょうし。ただ、特にいま一人だけの女性の仲間には「同胞を増やせなくてごめんなさい」というちょっと後ろめたい気持ちです。

(※追記:後日、体験にいらした女性から入門希望のご連絡をいただきました。嬉しいことです。。)

どの会派の道場でもそれなりにまじめに楽しく合氣道を稽古しているとは思います。ただ中には疑問を感じるところもあります。実際に自分が行ってみたいくつかの道場でも大変残念な思いをしたことがありましたし、ちょっと前にネットに合氣道経験者だという人物が「合気道は和風プロレスである」と書き込んでいるのを見つけました。その人は稽古していた道場がよくなかったのでしょう。おそらく、指導者が合氣道の理念や理法を伝えず「こう技をかけたらこう受身を取れ、合気道はそういうものだ」という指導をしていたのでしょう。もっとも、書き込み主もその道場だけの経験にとらわれずにちゃんと研究していれば別の見解が出てきたはずなので姿勢に問題があります。それにしても、例えば我々が教わった先師にしっかりと指導を受けていれば、決してそんな薄っぺらな言葉は出てこなかったでしょう。

自分はここでそれぞれの会派について優劣をいう気はありませんし、そんな能力もありません。ただ先師の伝えられた合氣道はやはり素晴らしいものだと思います。他の会派には見られない体さばきの稽古法や多彩な武器技、そして力を抜いて自然に相手を一体化してしまう呼吸力。他の会派のほとんどは、「力を抜いてリラックスして技をかける」とは言ってもそれはより自分の大きな力を引き出し、かつ有利なポジションを取り、力の方向を操作するといった理合を駆使することで巧妙に相手を倒したり関節を極める方法で、「相手の受ける感覚」は全く無視されていることが多いです。自分も何度も経験していますが、いくら相手が「力を抜いて技をかけている」と言い張っていても、技を受けた側(自分)は非常に強引な力を感じているのです。

一方で「合氣道真生会の呼吸力」は合氣道の和合の精神に即し、自分が楽であると同時に相手にも無理を感じさせない理法です。以前書いたことですが、先師の手を取った瞬間に自分の体がふわ~っと浮き上がってコロンと転がされた時の感覚を忘れることができません。みんなが痛い技として避けがちな四ヶ条でさえ、先師が行うとスーっと自分の体の中がエレベーターで上に行ってしまうようななんとも不思議な感覚になりました。

過去の関連記事 「 「呼吸力」 ~ 無重力空間に導く技 」 https://aikidoshinseikai-kawasakitakatu.cloud-line.com/blog/2021/03/101388/#more

未熟な自分には当然、まだまだまだまだ(×無量大数)先師や濱田師範長のように合氣道の真髄を伝えることはできません。しかし、端下の門人でありながらせっかく本部から遠く離れた関東の地で真生会の道場を開かせていただいているのですから、少しでもその素晴らしさを仲間たちに、そして周りの方たちに伝えていけるよう、努力していきたいと思います。

〈 川崎高津道場の稽古 〉




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~ おまけ ~

そういえば今日、6月2日は地元横浜の開港記念日です。いまから162年前の幕末、1859年6月2日(月日は旧暦、太陽暦では7月4日となり、奇しくもアメリカ独立記念日…もしやわざと?)、前年に締結された日米修好通商条約によりアメリカなどに対し横浜港が開港されました(長崎港も同日開港です)。まあ、外圧に押されて無理やり開港させられたのでおめでたいかどうかは難しいところですが、結果的に見ればその後の地域、そして日本の発展に大きく影響しましたからね・・・。それにアメリカが神奈川宿近付近の港を指定してきたのを治安問題を理由に数km離れた横浜村(当時は片田舎の寒村でした)に変更させたり江戸幕府もけっこう頑張ったんです。

開祖のご生誕はそれから24年後の1883年、武術の修業を始めたのが1902年頃ですから、幕末・維新史と合氣道に直接のつながりはありません。でも開祖の門人や関係者には幕末・維新史の重要人物の御子息、お孫さんなどが何人もいましたから全く無関係でもなさそうです。

例えば、戊辰戦争最後の箱館戦争において旧幕府軍を率いて激戦した榎本武揚氏の御子息である春之助氏、官軍・明治新政府の中心を担った薩摩の最後の藩主のお孫さん(島津久光公の曾孫)である島津忠秀氏も開祖の門人で、二人が開祖を挟んですぐ近くにいる写真もあります。15代将軍・徳川慶喜公のお孫さん(慶光氏?)も稽古していたようです。もちろんニックネームは「将軍様」。こういう方々同士が道場で顔を合わせた時はどんな気分だったでしょう…

うちの近所にも幕末史に関わる史跡がいくつかあります。東海道五十三次の保土ヶ谷宿跡はすぐ近くで、近藤勇ら後の新選組メンバー、西郷隆盛、坂本龍馬、木戸孝允(桂小五郎)など多くの人物が通っています。京都に向かう十四代将軍徳川家茂公の行列が通った時には(1863年3月)、後にトロイの遺跡を発掘するシュリーマンが丘の上から見物したと伝えられています。同じく近所には1863年にフランス人士官が殺害された「井土ヶ谷事件」跡があり、、謝罪のため幕府から使節団がフランスに派遣されました。その途上のエジプトで撮影されたのが有名な「スフィンクスと34人の侍(さむらい)」です。自分が今までに見た世界中の写真で一番おもしろいと思っている写真です。だって「スフィンクス」と本物の「侍」ですよ!?すごくないですか!?

〈 日本のビール産業も明治初期に横浜で始まりました! 〉

〈 日米和親条約締結の地 (横浜:1854年) 

〈 明治初期の横浜港 〉

〈 現在の横浜の海 〉

※真ん中へんちょっと見える堤防が上の絵の「象の鼻」です

〈 井土ヶ谷事件跡 〉

〈 スフィンクスと34人の侍(1864) 〉


合氣道真生会川崎高津道場 吉見新

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