合氣道真生会川崎高津道場 活動報告

2021.10.12

新選組と合気道につながりがはあるかっ?

この2021年秋に新選組の映画が公開されるそうですが、自分は実は(?)30年来の新選組のファンです。。これまでに東京板橋の隊士供養塔、日野の土方歳三生家、京都の八木邸、池田屋事件跡、油小路の決闘跡などなど度々を訪れ、司馬遼太郎先生の「燃えよ剣」は繰り返し何度も読みました。

さて、その新選組と合氣道にはなにかつながりがあるでしょうか?新選組については武術的観点から関心のある方も多いですよね。自分もその一人です。

〈 池田屋事件(1864年)跡:京都 〉

しかし、新選組が活躍したのは幕末から明治初頭の1863年~1869年、合氣道開祖・植芝盛平先生が、武術修業を始めたのは明治後期の1902年頃(18歳ごろ)と、40年近い年月の隔たりがありますので、直接的な関係はほぼないでしょう。

ですが、100%全く関係ない・・・とするのはちょっと寂しいので細い糸をたぐってこじつけてみたいと思います。

まず、人間的な関係で言えば、開祖の武術の師の一人である武田惣角(そうかく)氏は会津藩の武家出身です。幕末当時、会津藩は京都守護職として治安維持に携わっており、新選組もその所属部隊といった位置づけでした。1868年の会津戦争の際はまだ惣角氏は小さな子供ですが、転戦を重ねて会津藩の戦力に加わっていた土方歳三や斎藤一をチラリと目にしたことはあったかもしれません。特に斎藤一は戦闘終結まで会津に残り、その後も会津藩氏たちと行動を共にしています。惣角氏はさらに後年、かつて会津藩家老であった西郷頼母(たのも)(※保科近悳(ほしなちかのり))から柔術の秘伝を教わったという伝承があります。

また開祖の門弟の中には新選組の最高上司であったというべき15代将軍徳川慶喜公のお孫さんや、土方歳三が陸軍副司令官を務めた箱館政府の総裁である榎本武揚公のご子息榎本春之助氏がいました。逆に宿敵である薩摩藩の実質的最高権力者であった島津久光公のひ孫である島津忠秀公も開祖の門弟でした。近藤勇は「薩摩人の初太刀は外せ(※受け止めずによけろ、ということか?)」と隊士に注意を与えていたそうです。薩摩藩では示現流や薬丸自顕流という激烈な打ち込みを有する剣術が多くの藩士の間で盛んに稽古されていました。示現流の打ち込みは合氣道の横面打ちのフォームに通じるものがあり、自分は道場で説明する際によく例に挙げています。

〈 示現流の立木打ち稽古 〉

次に地理的には開祖の出身地である和歌山県田辺市は、江戸時代は8代将軍吉宗公も輩出した徳川御三家の紀州藩の領地でした(家老の安藤家が統治)。開祖の曽祖父は領民の代表として江戸に招かれ、将軍の御前で力自慢を披露する栄誉を得たそうです。そこには紀州藩主も同席していたことでしょう。慶喜公以前に新選組の最高上司であった14代将軍徳川家茂公はこの紀伊徳川家の出身です。そもそも近藤勇らが浪士対に加わって江戸から京都に向かったのは、この家茂公上洛の先陣という名目でした。年代的に考えて、開祖の曽祖父が拝謁したのは11代将軍家斉公であり、紀州藩主はその子で養子に出た斉順公であったと推測されます。その斉順公の子(=11代将軍家斉公の孫が14代将軍家茂公です

開祖が東京に出て働きながら武術修業を始めた明治35年ごろには、同じ東京の比較的に近い地域に幹部隊士で新選組屈指の剣士であった斎藤一(※藤田五郎)がいたので、も~~~しかしたらすれ違ったことくらいあったかもしれません。続いて明治45年から大正8年まで故郷の青年団を率いて開拓に尽力した北海道には同じく幹部隊士であった永倉新八(※杉村義衛)がいました。東京板橋の新選組隊士供養塔はこの永倉が発起人となって建立に尽力したものです。両者の生活圏は広い北海道で大きく離れた場所でしたので、直接会ったことはなかったでしょうが、お互い新聞などで名前を目にしたことはあったかもしれません。永倉新八が亡くなったのはちょうど開祖も北海道にいた大正4年です。

武術の面から見ると、新選組と関わりが深い武術流派は、近藤勇が宗家を継ぎ、土方歳三、沖田総司らが修業した「天然理心流」、芹沢鴨、永倉新八らの「神道無念流」、山南敬助、藤堂平助、伊藤甲子太郎らの「北辰一刀流」、原田左之助、谷三十郎らの「宝蔵院流槍術」などが有名です。また、明治以降に生き残った永倉新八、斎藤一らは剣術から派生した剣道(撃剣)でも活躍しました。

さてそれらの武術の中には合氣道の歴史に関わりが深いものが複数あります。

明確な記録はありませんが、宝蔵院流槍術は開祖も修業したとされ、また青年期に練達した銃剣術のベースの一つにもなっています。神道無念流出身の剣道家であった中山博道氏とその門弟である芳賀準一氏、中倉清氏らとは深い交流がありました。中倉清氏は一時期は植芝家の養子にも迎えています。開祖は「武道の基本は剣である」として剣術、剣道に深い関心を持って研究しています。なお、中山博道氏の剣の師である根岸信五郎氏は長岡藩士として戊辰戦争を戦っており、同時期に同じ官軍と会津で戦っていた新選組隊士たちとは遠い戦友ということになります。天然理心流は開祖も学んだ鹿島新当流を主要なルーツにしています。天然理心流はかつて剣術の他に柔術、棒術も伝えており、合氣道で一般的によく稽古される体、剣、杖と符合するのはおもしろいところです。

残念ながら天然理心流の柔術と棒術は多くが失伝してしまっているためその内容はよくわからないようです。しかし、残されている技の中で例えば「逆取(ぎゃくとり)」という柔術の形は合氣道の二ヶ条(二教)と似ています。古武術の柔術(体術、和術etc.)には合氣道の極め技、投げ技に通じる技がたくさんあります。新選組結成以前、近藤勇が稽古中に竹刀を打ち落とされた際、「飛び下がって柔術の構えをとった」という逸話もあり、柔術の心得があったことを感じさせます。

〈 川崎高津道場の稽古 〉

余談ですが、自分がいつもお世話になっている甲手兼(こてかね)武道具店では天然理心流仕様の木刀を販売していて、買い物にいった時によく振らせてもらっています(高いので買えません・・・)。これが長さは普通の木刀と同じ1メートルほどですが、丸太のような太さで重さは1.5キロ余りと、普通の木刀3本分ほどもあります。これを振るとお腹にズシッ!ズシッ!とどっしりとした重みが伝わって来てなんとも楽しい気分になります。(←なるんです。)天然理心流では日々この木刀で打ち合い、形の稽古を繰り返すのですから、近藤勇らは鍛え上げられた正に屈強の剣客たちだったのでしょう。

〈 甲手兼武道具店 (横浜市) 〉

ちなみに、このお店の名づけ親は新選組とも関わりのある幕末~明治の剣豪・山岡鉄舟だそうです

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さて、武術の面から新選組が多くの人々に関心を持たれる理由はなんでしょうか。自分は「刀」「流派」の二つが特に重要な要素かなと思います。

刀は室町時代中期までは白兵戦の主要兵器の一つでしたが戦国時代に入るとその役割は槍(やり)がほぼ独占しました。その後江戸時代に入ると戦いそのものがほとんどなくなりました。そうした時を経て、幕末はおよそ300年ぶりに訪れた刀の檜舞台だったのです。井伊大老が暗殺された「桜田門外の変」(1860)、薩摩藩の内部対立から勃発した「寺田屋事件」(1862)、新選組が討幕派のテロ計画を阻止した「池田屋事件」(1864)、さらに坂本竜馬暗殺(1867)など、幕末史の有名な戦いにおいて主要な武器となったのが「刀」でした。

刀の武器としての最大の利点は持ち運びが楽であることです。鞘に収めて腰に帯びれば両手が自由になり行動の妨げになりません。

〈戦時には空いている手で別の武器も携行できます〉

常に危険を隣り合わせとしていた討幕派の武士たちも街中で目立つ槍や長い銃身を持つ小銃を持ち歩くわけにはいきませんし、拳銃はまだほとんど普及していませんでしたので、いざという時に使う武器はどうしても刀になります。刀は全ての武士が公に持ち歩くことが認められていました。また治安を守る側の新選組などにしても、はじめから予定されていた戦闘なら槍や小銃などを準備していくでしょうが、日常のパトロールや散歩中の遭遇戦となると手元にある武器はやはり刀です。また幕末は室内戦も多かったので、狭い室内では槍よりも刀の方が扱い易いという利点もありました。

流派については、戦国時代にはまだ流派が少なくあまり普及していなかった上、何千何万という軍隊同士の集団戦であった戦国の合戦では個人の戦闘力はあまり重要視されませんでした。その時期にも宮本武蔵など武芸者の決闘は伝えられていますが、記録が古いため不明な点も多く、また幕末とは戦闘の状況がかなり違います。その後200年余りの江戸時代の間に流派は千以上に増大し、その技法・理念は練りに練り上げられて各流派ごとに様々な特徴をアピールしていました。10年余の幕末はそうして確立した諸流派の武術を修業した武士同士が現実に戦った最初で最後の期間でした。

その中でも新選組は様々な流派の武術の練達者が集まっておよそ6年間に渡って幾多の戦闘を繰り返した稀有な存在なのです。その歴史の中には、武術を研究する上での得難い記録が星の如くに散りばめられています。それは現代日本のどんな有名な武術家・格闘家でも決して実体験することのできない現実の記録です。古武術に興味を持つ人々がその存在に関心を持つのは自然な成り行きのように感じます。自分は実際に剣を振って戦いたいとか人に危害を加えたいという気持ちは全くありませんが、先人たちが正に命がけの戦いの中で残した記録は大切に学んで行きたいと思います。

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今回はいつもに増して自分の趣味に走ってしまいましたが、様々な側面から研究、考察してみると新たな学びや発見もあるかもしれない・・・ということで、ご理解・ご容赦いただけたら幸いです。

〈 新選組隊士供養塔:東京板橋 〉

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~ 追記 ~

新選組と合氣道の直接のつながりというわけではありませんが、作家・記者であり昭和初期に「新選組始末記」「新選組遺聞」「新選組物語」のいわゆる新選組三部作を著した子母澤寛(しもさわ かん)氏は、開祖の高弟で整体師をしていた砂泊兼基(すなどまり かねもと)先生のもとによく通院していたそうです。もし二人の間で新選組について話すことがあったなら、すごく興味深いなー・・・と思ったりします。

砂泊兼基先生は昭和初期に入門した合氣道史の中でもかなり初期の門人で、開祖のご生前に伝記「合気道開祖植芝盛平」(講談社)(後の「武の真人」(たま出版))を著しています。

やはり開祖の高弟で、九州で万生館合氣道を開いた砂泊諴秀(すなどまり かんしゅう)先生のお兄様です。

〈 砂泊兼基先生著 「武の真人」 〉

↑この本の中に「新撰組の猛者よ、しっかりせい!」という章がありますが、残念ながらこれは本家の新選組のことではなく、戦前の大阪でそう別称されていた警察官たちに開祖が出張指導した際のエピソードです。

〈 砂泊諴秀先生 AikiNews 〉


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合氣道真生会川崎高津道場 吉見新

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