合氣道真生会川崎高津道場 活動報告

2021.03.12

なぜ古武術は打撃が少なく関節技と投げ技が多いのか

古武術の中で、合氣道や柔道のルーツである柔術・体術などと呼ばれる武術を見ていると、伝承されている技法の多くの割合を関節技(極め技、逆技)と投げ技(倒し技)が締め、打撃技(いわゆるパンチやキックなど)が少ないことに気が付くと思います。

もちろんないわけではなく、中には打撃技が多い流派もありますが、全体的に見るとかなり少数派であるはずです。そして打撃を用いる流派も、打撃が決定打となるわけではなく、関節技、投げ技に持っていくためのプロセスとして用いることが多いようです。現代の総合格闘技などでは打撃技が非常に大きなウェイトを締めており、それを根拠に「古武術は実戦的ではないと」考えている方も多いようです。

なお、総合格闘技の「柔術」は古武術の柔術とは全く違います。あれは現代になって柔道を総合格闘技向けにアレンジしたもので、古武術とは理念・技法において大きく乖離しています。

 〈古武術の技法を継承する合氣道の投げ技〉


さて、なぜ古武術には関節技・投げ技が多く、打撃技が少ないのでしょうか?もちろん、その理由は一つではなくいくつかの要因があると思いますが、そのかなり大きな一つが、「戦場では甲冑を着ていたから」ではないでしょうか。まぁ、ちょっと考えれば誰でもわかることだと思います。甲冑武者に対しては、打撃技はほぼ効果がありません。古武術の中には諸賞流和(しょしょうりゅうやわら)のように甲冑の内側の肉体にダメージを与える凄まじい打撃技を伝承している流派もありますが、技の習得にはかなりの年数がかかるでしょうし、激しく動き回る戦場において十分な体勢をつくり、必殺の打撃技をクリーンヒットさせることは熟練者であってもかなり困難であると思われます。

空手経験者や打撃系格闘家の方の中には、「いや自分のパンチ(キック)なら効くはず!」という方もいるかもしれませんが、試しにやってみたらよいと思います。鉄板を組み合わせた胴鎧は非常に堅固な上に、鎧と体の間にはわずかに隙間があり、打撃の威力はなかなか伝わりません。最も頑丈な上に突起もある複雑な形状の兜を手足で攻撃しようものなら自分が大怪我をするでしょう。増して本来なら相手は槍(槍)や刀といった殺傷力の高い兵器を手にしています。何人いるかもわかりません。槍を構えた甲冑武者にハイキックをかまそうとしたらどうなるか、ちょっと想像してみてください。

 〈例えばこんな状況ならどうしますか?〉


〈参考資料〉戦国時代の槍は全長4~5mです


とかく、現代人は昔の人を自分より劣るものと思いがちで、武道、格闘技を練習している人たちの中には、「昔の人より現代人(自分たち)の方が実戦を知っている」と思いがちの傾向がありますが、その人たちの中に真の実戦の場である「戦場」に出たことある人が何人いるでしょうか?「武器なし、防具なし、1対1、目潰し・金的・後頭部への攻撃禁止・・・etc.」というリング上での格闘が「実戦」ですか?「何でもありの殺し合い」それが本当の実戦、戦争です。そこでは何万人の兵で襲撃しようと、どんな兵器を使おうと、どんな卑怯な戦術を用いようと、「勝ったものが正義」です。誤解のないよう言っておきますが、自分も戦場に出たことはありませんし、そもそも戦争はまっぴらごめんです。平和な世界でのほほ~~~んと無事に生涯を終えたいと願って止みません。

ともあれ、平安末期から鎌倉、室町、戦国時代のおよそ500年間の日本は戦乱に次ぐ戦乱の時代でした。兵士、兵器、装備、戦術、築城技術は練に練り上げられ、戦国時代を戦い抜いた歴戦の武者たちはオランダ軍の傭兵として高額の報酬で雇われ、東南アジア各地に駐屯していたスペイン軍などを相手に目ざましい戦果を挙げています。おそらく古代から現代までの日本の軍事史で、白兵戦(飛び道具無しでの戦闘)能力はこの戦国時代末期が最高レベルでしょう。槍を連ねて突進してくる足軽部隊には現代の自衛隊も銃火器なしでは歯が立ちません。また16世紀半ばに伝来した鉄砲は、わずかな期間に国内で大量生産できるようになり、数十年後の戦国時代末期の日本は世界で最も大量の鉄砲を保有する国となっていました。更に日本刀の鍛造技術をベースにして国内生産された鉄砲は、本家のヨーロッパに勝る性能に高められていました。こと野戦の軍事力において、当時の日本は世界最強クラスでした。世界中に支配地を広げ「太陽の沈まぬ国」として君臨していたスペインでさえ、宣教師を通じた調査により、「日本を軍事力で攻略するのは困難である」という結論を出し、キリスト教の布教を通じた精神面からの支配を進めようとしていました。これが江戸幕府による禁教令、そして鎖国政策の大きな要因の一つとなります。

話を甲冑戦に戻しますと、自分(吉見)は、若い頃に小田原北条五代祭りという神奈川県小田原市のイベントの武者行列に6度ほど参加したことがあり、その際にはかなりリアルに作らた甲冑を着させていただきました。若かった(つまり今より更にバカだった)自分たち、は互いに本気で甲冑の上からボコボコと打撃を加えあってみましたが(中には空手の有段者もいました)、打たれた側には全くダメージはなく、打った方の手足がただただ痛いだけでした。剣槍から身を守る甲冑ですから、それはそうでしょう。これは防弾チョッキを装備し、ヘルメットをかぶっている現代の戦闘員にも通じる話かもしれません。

〈向かって左から二人目が吉見/甲冑の装甲は実際に金属製です〉

〈このころ合氣道は初段、居合は弐段くらいだったかな…?と思います。〉

そこで、甲冑戦において絶大な効力を発揮するのが関節技と投げ技です。甲冑を着ていても関節技に対してはなんの防御力もありません。地面に投げ倒されれば著しく動きを制限されます。接近戦となり、いざ組み討ちとなれば、関節技や投げ技により、動きを封じた上で刀、短刀などでとどめを差していたのです。平安末期、鎌倉、室町時代の合戦絵図などを見ると、甲胄武者を地面に組み伏せて刀で首を切っている様子などを少なからず見つけることができます。「平家物語」で熊谷直実が平敦盛を組み伏せ憐れみながらも首を取る場面はよく知られています。組み技の補助となる打撃技も、眉間、脇、金的など、装甲のない部分を狙うことが多いのが、これらの技法が甲胄戦から生まれたものであることの証であると思います。余談ながら、寝技を使う流派が多くないこともこの理由が一つだと思います。戦場で一人の敵とゴロゴロ戦っていたら他の敵に殺されてしまいますからね・・・。

〈昔はこうして動きを封じた上でとどめを差したのでしょう〉

 〈剣の動きを封じて投げる〉

そしてそれらの技法が太平の江戸時代にも継承され、護身術として応用されるようになったと推測できます。相手が刀などの武器を持っていれば、関節を極めるなり投げ倒すなりして動きを止めた方が安全です。なお、江戸時代までは武士はもちろん庶民にとっても槍や刀は身近な武器でした(※関連ページ「合氣道の武器技」https://aikidoshinseikai-kawasakitakatu.cloud-line.com/aikidobuki/)。併せて血なまぐさい戦いを好まなくなった時代の人々の意識にも適合したのだと思われます。江戸時代の武術は、芸(芸術)であり武士にとっては教養の意味合いが大きかったので、殴り合って鼻血を出したり額をカットしてダラダラ血を流すような戦い方よりも、関節技や投げ技でスマートに相手を制する技が好まれたのではないでしょうか。

〈腕力を使わずきれいに技が決まれば、相手は痛みはなくても動けなくなります〉 

関連ページ「合氣道の技と稽古内容」 https://aikidoshinseikai-kawasakitakatu.cloud-line.com/technique/ 

そして、現代の合氣道では、「武の根源は万有愛護の精神である」という理念の元で、相手を傷つけない、それどころか痛みさえ感じさせない技法へと昇華させています。自分は武道は好きでも自分が痛いのも他人を傷つけるのも全く好きではないので(誤って友だちのご近所ネコにぶつかってしまった時でも「ごめんなさい!」と平謝りしています・・・)、本当に合氣道に出会ってよかったなと思っています。

とはいえ、まだまだ自分の実力など合氣道の理想からみれば下も下、最新式の潜水艦でもたどり着けない日本海溝の最深部でなんとか上に向かおうとジタバタもがいているといったところです。少しでも合氣道の理想である「霊肉一体の至上境」に近づけるよう、これからも師範長に指導を仰ぎ、仲間たちとたゆまず稽古に励み、研究を続けていきたいと思います。

皆様宜しくお願い申し上げます!!

合氣道真生会川崎高津道場 吉見新

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補足1:同じように昔は鎧を着て戦っていた海外はどうなのだ?と言われる方もいるかもしれませんが、中世ヨーロッパにもやはり関節技、投げ技を主体とする格闘法があり、その図を見ると古武術の技法と共通点が多いことにおもしろさを感じます。しかし日本より早く鉄砲・大砲の時代を迎え、より機敏な機動性を求めて徐々に甲胄を着ることのなくなったヨーロッパではそれらの技法は使われなくなっていったと思われます。レスリング、ボクシングなどは古代ローマリンピック以来、戦場格闘技ではなく、競技種目や鍛錬法として継承されてきたものです。なお古代エジプトの壁画には組み技が描かれたものがあり、柔道の創始者である嘉納治五郎先生がそれを見て「肩車」という技を発案したことは有名な逸話です。

  〈中世ヨーロッパ武術体験(向かって右端が吉見)〉

補足2:打撃技を多用する沖縄発祥の空手は、既に甲冑を着なくなった江戸時代に、支配者であった薩摩藩に武器の携帯を禁じられた中で発達しました。なお本来の空手は徒手のみの武道ではなく、暗器(あんき)と呼ばれる隠し武器や武器に見えない武器の技法を数多に有します。例えば、ヌンチャクやトンファーも元は空手の武器であり共に穀物を脱穀する農具がその起源です。また空手のルーツである中国拳法は、戦場格闘技というより護身術、そして仏僧や道士の修業法、更に転じて健康法として継承されてきた側面が大きいと思われます。例えば中国で古代から最後の清王朝時代まで行われた「武科」という武官登用試験の課題は、弓矢や棍棒の操作であり徒手格闘の能力は問われませんでした。

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〈参考資料の一つ:「日本の古武道」横瀬知行/日本武道館出版/平成12年〉

綿密な取材による豊富な写真と詳細な記事の良書です。

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おまけ:友だち(だと一方的に思っている)ご近所ネコS。。

断言できます ネコには永遠に勝てません

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