合氣道真生会川崎高津道場 活動報告

2021.08.15

戦争と武道 -  終戦の日に -

歴史の中で日本武道は戦争と密接につながってきました。

武道のルーツである武術は、古来「兵法(ひょうほう・へいほう)」とも呼ばれ、合戦のための戦闘術という色彩が濃厚でした。鹿島新当流の塚原卜伝、神陰流の上泉信綱、二天一流の宮本武蔵ら江戸初期までの兵法家は多くが合戦経験者でした。古武術にCQCなど軍隊戦闘術を取り入れることを新しい考え方だと思い込んでいる人が少なからずいますが、なんのことはない、古武術は元々が軍隊戦闘術だったのです。しかも戦国時代の日本は世界でもまれに見る戦争多発地帯で、当時の武士たちは正に歴戦の強者でした。その戦力は世界中に支配地を広げていたスペインに武力侵略を断念させ、新興国オランダは武士を傭兵として利用し、東南アジアにおける植民地争奪戦争の主要な戦力とするほどでした。

〈 戦国武将 伊達政宗公の像 〉


それが大きく変化したのは200年以上続いた江戸の太平の世でした。武士は実戦の場を離れ、武術は次第に平時の護身術、更にはそれさえ離れて武士の教養という色彩が強くなっていきます。そこでは血なまぐさい荒々しい戦闘スタイルは敬遠され、スマートで見た目にも美しい技法が好まれるようになりました。それでもなお武術修行に不熱心な武士も多く、江戸前期、まだ大坂の陣から50年余りしか経っていない時期に、ある尾張藩士はお役目に付くにあたって体面上なにかしらの武術の免状が必要になり、慌てて鉄砲術師範にお金を積んで懇願したことを書き残しています。

武術は再び戦乱の訪れた幕末期に隆盛し、多くの剣槍の練達者が実戦の場で活躍しますが、明治の文明開化、武家社会の消滅、廃刀令により大きく衰退を始めます。それが日本が軍国主義政策を歩む過程で明治半ば頃から復興し、再び武術・武道は軍事と密接に結びつくようになります。闘争を本位とする「武術」から「武道」へとその在り方を改めて、心身の修養法、教育の一貫として普及しつつあった柔道・剣道なども、兵士及びその予備群である少年・青年たちの心身鍛錬術という色彩が強くなっていきました。

合氣道もまたその時代の趨勢に無関係ではいられませんでした。開祖の生きた時代(1883~1969)の日本は、日清戦争、日露戦争、第一次世界大戦、日中戦争、太平洋戦争…と戦争に次ぐ戦争の時代でした。昭和20年(1945年)に日本が終戦を迎えた後も、隣国では朝鮮戦争やベトナム戦争が勃発し、現在に至るまで世界のそこかしこで紛争が続き、多くの命が失われています。戦前の頃は開祖の門下にも多くの陸海軍人がおり、開祖ご自身も要請を受けて複数の軍関係施設に出張指導に赴いていました。戦後に熊本で万生館合氣道を開いた砂泊諴秀(すなどまりかんしゅう)先生(1923~2010)はちょうどアジア・太平洋戦争中の昭和17、8年頃に開祖の内弟子として修業しており、週2回ほど東京中野にあった憲兵学校に出張指導に赴く際の随行役を務めていたことをインタビュー記事で語っています。そこで求められたのは柔らかい呼吸投げなどではなく、二ヶ条、三ヶ条、小手返しといったしっかりと相手を制する技であったそうです。実際に戦地でそういった技が使われたかはわかりませんが、合氣道を暴力として利用されることは決して開祖の本意ではなかったでしょう。

〈 二ヶ条極め 〉


〈 小手返し投げ 〉


〈 砂泊諴秀先生 (Aiki News 表紙) 

開祖の門弟の中からも多くが戦地へと旅立ち、帰って来られなかった方もいました。濱田師範長や自分も教えを受けた先師も、東京の道場で修業中であった昭和18年の暮れに召集令状、いわゆる「赤紙」を受け取り鹿児島の基地へ旅立ちます。幸い、そのまま前線に赴くことなく終戦を迎えましたが、鹿児島は米軍上陸の有力候補地と予想されていたので、もしそれが実現していれば、先師は爆弾を抱いて戦車に突撃させられていたでしょう。おそらくそのための防衛戦力として各地で戦局が深刻に悪化し続けてもなお国内に残されていたのだと思います。

〈 臨時召集令状 (赤紙) 〉

〈 沖縄に上陸する米軍 〉

平成20年頃のことでしたか、有段者交流研修会が行われた日は、ちょうど8月6日でした。昭和20年、広島に原爆が落とされた日です。研修会が始まる前に、先師が「黙祷をしましょう」と呼びかけられたのをよく覚えています。さらに後の会話の中で小さいながらもしっかりとした声で発せられた「戦争は絶対にいけません」という言葉が、10年以上経った今も強く耳の奥に焼きついています。多感な少年~青年時代を暗く厳しいい戦時下に過ごした先師には、戦争に対して様々な思いがあったのだと思います。

白兵戦に及ぶことの多かった戦国時代や幕末・明治初期までの戦争では武術も役に立ったでしょう。しかし銃火器の発達した近代戦争ではもはや武術の出番はほとんどありません。戦車や戦闘機を相手に柔術が役に立たないのはもちろん、剣槍とて耳かきと変わりません。昭和20年3月10日に東京は大空襲に見舞われ約10万人の死者を出しますが、その中には柔道家であった徳三宝氏(とくさんぽう:柔道十段追贈)も含まれています。広島・長崎の原爆で一瞬にして命を奪われた何万もの人々の中にも、少なからず剣道、柔道、その他の武道の練達者がいたでしょう。各地で苦戦に追い込まれ、弾薬の尽きた日本軍は軍刀や銃剣での特攻切込を敢行し、時には敵軍を恐怖させたこともあったと伝えられています。そこでは図らずも剣道、柔道、中には合氣道の技が使われたこともあったかもしれません。しかし、そのほとんどは多大な犠牲を出しながら失敗に終わり、もちろん戦争の大局にはなんの影響も及ぼしていません。

ご自身も兵役の経験があり、戦争の時代を見つめ続けていた開祖には、近代兵器の前にいかに腕力や刀槍が無力なものか、わかりすぎるほどわかっていたはずです。開祖は太平洋戦争が始まる10年以上前もに、「武の根源は万有愛護の精神である」という合氣道の根本理念に到達していました。昭和20年8月15日、太平洋戦争が終結した後、開祖は「これから本当の合氣道ができる」と漏らしたと伝えられています。

〈  合氣道開祖 植芝盛平翁先生 (岩間) 

本当の合氣道とは何でしょうか。

開祖の道歌の中に「合氣にて、よろづ力を、働かし、うるわしき世と、安く和すべし」というものがあります。合氣道の「合氣」とは「愛」であり「むすび」です。殺傷の力、破壊の力ではなく、人と世界と自然を結ぶ愛の力で全てを行い、美しい平和な世界を作っていきましょう、それこそが合氣道が目指すものであり、日々の稽古はそのための修業であり道ゆきなのだと思います。

合氣道に関わる人々の中にも、安易に「もっと実戦的に…」などと言って他の格闘技や軍隊戦闘術と結びつけたがる人が少なくありません。しかし、それは合氣道を発展させる思考ではなく、時代錯誤で浅薄な闘争論に過ぎません。少なくとも合氣道を名乗って稽古を行う以上は、歴史の中でどれだけの犠牲が払われてきたか、開祖が何を目指して合氣道を生み出し、育て、後世に託したのか。個人の思い込みや偏狭的な価値観を取り払い、それを徹底的に考えなければ、「真の合氣道」は決して見えて来ないのではないかと思います。

-  戦災で亡くなった方々のご冥福を謹んでお祈りいたします  -

〈 東京大空襲の犠牲者を供養する「平和地蔵」(浅草) 〉

〈 神奈川県戦没者慰霊堂 (横浜市) 〉

〈 かながわ平和祈念館 (横浜市) 〉


〈 空襲後の横浜 (かながわ平和祈念館 〉

〈 沖縄の爆撃跡 穴は全て弾痕 〉

〈 英連邦戦死者墓地 (横浜市) 〉


2021年8月15日 合氣道真生会川崎高津道場 吉見新

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