合氣道真生会川崎高津道場 活動報告

2021.06.15

ガンダムと合気道・・・(笑)

なんのことだ??というタイトルですが、たまたまNHKの「浦沢直樹の漫勉neo」という番組を見ていてちょっとおもしろい発見(?)があったのです。

その番組は毎回一人の漫画家さんのお仕事の様子を紹介するもので、その回は名作アニメ、「機動戦士ガンダム」の主要制作スタッフとして特に有名な安彦良和先生でした。

その番組で紹介されていた「乾と巽」並びに「虹色のトロツキー」という安彦先生作品に、合氣道を感じさせる柔術の技を使っている絵があったので、興味を持って調べてみたら、なんと主人公は合氣道開祖・植芝盛平先生に柔術を習った設定だというではありませんか。で、とりあえずネットの無料試し読みで端から読んでみたりあらすじを調べてみたりしました。

時代的に「乾と巽」は大正時代の話で、主人公は少年時代に北海道で開祖に「柔術」を習ったことになっているようです。なお、総合格闘技の「柔術」は古武術の柔術とは全く違います。あれは現代になって柔道を総合格闘技向けにアレンジしたもので、古武術とは理念・技法において大きく乖離しています。開祖は明治35年ごろ、18、9歳で東京において起倒流柔術を学んだらしく、これが武術修業のスタートになるようです。続いて兵役中であった20~23歳の期間に大阪で柳生流柔術を学び、更に開墾のために地元の青年たちを率いて入植した北海道において大正4年、31歳ごろから大東流柔術を学びはじめます。主人公はこの時期に開祖の教えを受けたことになっているようです。開祖はその他にもこの時期までに神陰流剣術、銃剣術、柔道などを修業しています。

「虹色のトロツキー」の方は、太平洋戦争が始まる数年前が舞台のようで、主人公の青年は「合氣武道」の遣い手ということになっているようです。「合氣武道」は昭和13~17年の間ごろに使用されていた名称で、その後「合氣道」という名称に定まります。

開祖は大正8年に北海道を離れて京都の綾部に移住し、大正9年に初めて自身の道場である「植芝塾」を開きます。そこで徐々に武道家としての名が高まり、門弟たちの強い希望に応じて昭和2年に東京に移住、昭和6年に現在合気会本部道場のある場所に「皇武館」を開きます。おそらく「虹色のトロツキー」の主人公が合氣武道を学んだのはその前後のことでしょう。となると、昭和7年に入門した塩田剛三先生(後に合気道養神館を開く)あたりは近い時期に入門した兄弟弟子ということになるかもしれません(笑)。

さて、作者の安彦先生は合氣道の経験はなさそうですが、なぜこのように開祖に肩入れされるのか・・・と思ったところ、先生は北海道の北東端に近い遠軽(えんがる)町のご出身だということではありませんか。

遠軽町といえば、明治45年に開祖が故郷和歌山の青年たちを率いて入植し、8年に渡って開墾に努めた白滝村を含む地域です。開祖はこの開墾事業で大きな成果を収め、白滝村及び近隣の人々から大きな信頼を得て「白滝王」と尊称されたそうです。大東流柔術に出会ったのもこの遠軽町です。おそらくそのような縁から安彦先生は開祖に関心を持たれ、作中に度々登場させるようになったのではないかと思われます。現在でも遠軽町は合氣道とのつながりを大切にしており、町のHPでも紹介されているし(ちょっと内容にツッコミたいところもありますが・・・)、地域の資料館には開祖の残していった品々が展示されているそうです。特に白滝村は開祖が入植した明治45年を開村の年と定めているそうです。安彦先生にしてみれば地元ゆかりのヒーローみたいなイメージもあるのかもしれません。

とか思って遠軽町HPを見直したら↓、紹介映像のイラストを描いたのは安彦先生だそうです。なんかもういろいろビックリ(^_;

えんがる歴史物語(遠軽町HPより)→ http://story.engaru.jp/story/ueshiba/


安彦先生が合氣道を稽古したいと思ったことがあるかどうかはわかりませんが、例えそう思っても絵を描くことを生業とする先生としては、手を負傷する可能性のある武道はできないと考えたかもしれません。これは楽器を演奏する音楽家さんや外科手術を行うお医者さんなども同じことで悩ましいところです。


ただ、我々の合氣道真生会の場合、極め技は行わずに体さばきや呼吸力養成法、受身なしで体勢を崩すまでの呼吸技、剣・杖の形などを稽古するなら負傷の危険性はかなり減少すると思います。それでも護身術や健康法としては大きな効果があると思います。

さて、安彦先生が関わった作品として一番有名なのはやはりアニメ「機動戦士ガンダム」でしょう。作画監督、キャラクターデザインという主要スタッフとして同作に深く関っています。つまり、アムロ=レイやシャー=アズナブルを生み出した方なわけですね。後にガンダムの漫画も描いています。

となると、今まで気付かなかったけどよく見たらガンダムの中にも合氣道っぽい技を使うシーンがあったりするかも・・・??はっ!「ジオング」というモビルスーツの広がった腰下がよくスカートとか言われてますけど、あれはもしや袴がモデル・・・!?ドムやゲルググの足元もそれっぽい!!とか考えていると、木刀がビームサーベルに見えてきます(笑)。

まぁ、少年向けアニメとはいえ戦争がテーマの作品なのでそこに合氣道を使っていたら複雑なものがありますが・・・、決して戦争を賛美するような作品ではありませんからね。

とりあえず、また再放送が始まったら一話からよ~~~く見てみようと思います。。


- - - - - - - - - -

〇開祖に関する略年表 

明治16年 和歌山県田辺市に生まれる

明治35年 東京で起業、起倒流柔術、神陰流剣術を学ぶ→帰郷後に結婚 (19歳)

明治36~39年 大阪で兵役に就く、訓練で銃剣術を習得、同時期に柳生流柔術を学ぶ (20~23歳)

明治45年 北海道白滝村(現在の遠軽町)に入植、後に大東流柔術に出会う (29歳~)

大正9年 京都府綾部に移住、道場「植芝塾」を開く (37歳~)

昭和2年 東京に移住→昭和6年に新宿区若松町に道場「皇武館」を開く (43歳~)

   この時期に柳生新陰流剣術、鹿島新当流剣術を学ぶ?

昭和13年 「合氣武道」の名称を使用→昭和17年に「合氣道」と改称

昭和17年 茨城県の岩間に移住、以後昭和40年頃まで主にここで暮らす (59歳~) 

昭和44年 東京の自宅でご逝去 (86歳)

岩間(茨城県)では道場の隣にあるこの家に住んでいた時期もあったそうです。



北海道開墾時代の開祖の足跡については「武の真人 合気道開祖植芝盛平伝」(砂泊兼基著)、「合気道開祖植芝盛平伝」(植芝吉祥丸著)などに詳しく記されています。

- - - - - - - - - -

合氣道真生会川崎高津道場 吉見新

カレンダー

«6月»
  1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30    

フィード

モバイルサイト

ページの先頭へ