合氣道真生会川崎高津道場 活動報告

2021.05.22

合気道の座り技 ~武道と伝統生活

たまに世間でも話題に挙がっているのを耳目にしますが、合気道に「座り技」(「座技」(ざぎ))があるのはなぜでしょうか?

まぁ、理由は簡単なことで、古来の日本人の生活は室内では座っていることが多かったからです。更に伝統的な日本家屋は天井が低く、特に二階ともなれば大人が立ち上がれば頭をぶつけるくらいの家も普通だったようです。そうなれば下手に立ち上がるよりも座っている方が体勢の自由きくこともあります。

座り技はそういった状況での護身術として自然に生まれました。合氣道のルーツも含む古流柔術や居合の諸流派も多くの座り技を有しています。自分の知る限り、世界のどの格闘技・武術にも体系化された座り技を有しているものはなく、日本の武道・武術だけが持つ大きな特徴の一つだと思います(注:「寝技」と「座り技」は技法も存在性も全く違います)。

〈 合氣道の座り技 〉

近代以前の日本では、日常生活ではもちろん、公式の行事などでも室内では全員が床(畳)に座っていました。少しでも時代劇を見たことがあれば、大広間に家来がずらりと座って殿様に拝謁しているシーンや悪代官と悪徳商人が座敷に座ってヒソヒソ話をしているシーンがすぐに思い浮かぶと思います。日常の食事も宴会も座敷でしたし、店舗を持つ商人は座って接客をしました。百人一首の絵札も100人全てが座った姿で描かれています。戦前のころまではそれがごく当たり前の姿で、室内では座っていることが上品で落ち着いた姿だったのです。

〈 宿場町の商店 (江戸時代 ) 〉

(この店の床が高いのは馬の背に合わせたため?)

座っている状況が多ければ、その時に襲われることもあり、その場合の護身術が必要になるのも当然のことです。

例えば、幕末の有名人である坂本龍馬は、慶応3年(1867年)11月15日の夜、隠れ家二階の座敷で座っているところを襲撃され、最期を遂げました。客を装って来訪した討手は挨拶の最中に斬りかかったと伝えられています。おそらく正座姿勢から瞬速で抜き打ちしたのでしょう。そういった技法は、現在でも居合の形の一つとして伝えている流派があります。龍馬も剣術の名手であったとされていますが、暗闇の中での一瞬の出来事にはさすがに対応しきれませんでした。増して討手たちもかなり優れた剣客だったとされています。

〈 坂本龍馬終焉の地 (京都) 〉

〈 座り居合の抜刀の形 〉


自分は史跡や史料館に行くのが好きで、江戸時代以前の伝統家屋を保存している江戸東京建物園や川崎市民家園には何度か訪れました。普通はそこを立って見て回るわけですが、自分はどうも落ち着かなく感じてある時ストンと座ってみたのです。「あ、これだ」と思いました。とにかく、すごく落ち着くのです。何時間でもそうしていられる気分でした。家と自分が自然に一体となった感じです。部屋の広さ、天井の高さ、家具の配置、さらには縁側から見える風景までが、座っていることを前提に作られているように思えました。それ以来、そういった伝統家屋に行くたびに座ってみることにしています。熊本城本丸御殿、同じく熊本にある細川刑部邸、夏目漱石旧居、小泉八雲旧居でも座ってみました。さらに周りに人がいないのを確認した上で、座り技一~四ヶ条その他をエアでやってみたり・・・(内緒でお願いします)。いずれにせよ、そこで武術の稽古をするとしたら立って行うより座って行う方が自然であることがすんなり納得できました。

〈 江戸時代の家屋 細川刑部邸:熊本 〉

逆にヨーロッパでは古来より室内でも活動中は多くの人が立っており、座るときはイスやベッドの上でした。中国や韓国の時代劇を見ていても、立って行動しているシーンが目立ちます。日本でも大陸文化の影響が強かった古墳時代~奈良時代ごろまでの絵・像などでは立っている姿が多く見られます。天皇や高僧はよくイスに座っている姿で描かれています。宮殿の造りにしても、中国や韓国では皇帝・王の生活スペースや各政治機関がそれぞれ独立した建物で、移動するには一旦外に出る必要があるのに対し、江戸城本丸をはじめとする諸大名の御殿では主君の生活スペースと主要な政治機関(江戸城では表・中奥・大奥)とが全て座敷と廊下でつながっていました。つまり、どこでも座ることができたわけです。実際、江戸城では廊下にも畳が敷き詰められており、隅に座って挨拶や話し合いをすることもできました。それだけ、「座る」ということが当たり前のことだったのです。幕末の欧米使節団と幕府代表団が交渉や会食をしている絵では、欧米人たちはイスに座り、武士たちは台の上に正座してずらりと並んで向かい合っているいささか珍妙な光景を見ることができます。

日本と外国とでは儀礼・生活の様式に大きな違いがあったのです。そして、そうした様式は、武術とその要素を継承する武道ともしっかり結びついているのです。

合氣道の体技も、初期の頃は座って稽古することが多かったのだと思われます。そもそも、開祖がまだ武道の専門家として活動する以前の大正4年、大東流柔術の武田惣角氏に初めて指導を受けたのも北海道の久田旅館という商人向けの宿屋であったといいますから(今で言えばビジネスホテル?)、立って派手にバタバタ動くことはできなかったでしょう。当時の宿屋は現代のホテルや高級旅館と違い、部屋は狭く粗末で、何組もの客が相部屋ということも普通でした。その後、大正9年に開祖が京都で初めて開いた道場「植芝塾」も20畳程度、大正15年以降、東京に出てしばらくの間も自宅を改装して十数畳を仮の稽古場にするような時期が続きました。昭和6年に新宿区若松町に道場が建設され(現合気会本部道場所在地)、続いて昭和7年に兵庫の竹田に大きな道場が作られますが、竹田の道場周辺では、「座ってなにやらしている」と噂が立ったといいますから、やはりその頃でも座り技が稽古の中心であったのだと思われます。開祖は晩年まで座り技を体技基本として大切にされ、稽古を見に来て立ち技を行っていると不機嫌になったと伝えられています。

いま、合氣道界全体でだんだん座り技の稽古が減っているようです。現代ではかつてのように座敷に座って他人に会うような機会は少なくなっていますから、必要性の薄いものが廃れていくのは時の流れとしてやむを得ないところもあると思います。自分の稽古している川崎高津道場も、膝の悪い方が数名いるのでほとんど座り技は稽古できません。

しかし、あまり必要ないから、諸事情で無理だから、と簡単に無くしてしまってよいものでもありません。一度無くしてしまったものを再び取り戻すのは大変の労力を要します。古武術の諸流派でも、伝統工芸の世界でも、一度は不要と考えられて失われてしまった技法を取り戻すことには大変な苦労をしています。もはや取り戻せないものもあるでしょう。

剣の技がそうであるように、現代生活に直結はしなくても、そこには多くの大切のものが隠されている可能性があります。座り技を稽古することではじめて理解できる感覚もあります。もちろん、膝の悪い方に無理に座り技を稽古しろなどとは言いませんが、なんらかの方法で研究は続けていくべきでしょう。開祖がなぜ座り技を伝え、大切にされていたか、合氣道を修業していく上で十分に考えていかなければならない課題の一つであると思います。

合氣道真生会川崎高津道場 吉見新

〈 熊本城本丸御殿 〉

〈 夏目漱石旧居 (熊本) 〉

〈 小泉八雲旧居 (熊本) 〉

〈 日本民家園 (神奈川) 〉

〈 古民家の室内 (日本民家園) 〉



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