合氣道真生会川崎高津道場 活動報告

2021.05.01

太刀と打刀 ~合気道の剣

一口に「刀(日本刀)」と言っても時代によって大きな変遷があり、太刀と打刀ではその存在性に大きな違いがあります。

たまに道場で話題に挙げるのでここで個人的な考察を記しておきます。

なお、太刀(たち)と打刀(うちがたな)は形状や製作年代には明確な区別はありません。

両者の絶対的な区別は、「刃を下に向けて腰に吊るす(佩く)のが太刀)」、「刃を上に向けて腰に帯びるのが打刀」ということです。では拵え(外装)がない刀はどうやって区別するのかというと、銘(刀匠の名など)が中子(なかご/茎)のどちらの面に刻まれているかが最も明確な判別基準になります。つまり刃を下に向けて左腰に佩いた時、銘が表(体の外側)に向けばそれは太刀、その反対側であれば打刀です。刀匠がその目的で作刀したということですから。ただ、元々無銘のものや短く詰められて銘が消えてしまっているものは、形状や模様、材質などから類推するしかありません。

〈 刀の中子(茎)と銘 〉

そうは言っても両者にはやはりそれぞれの特徴があります。太刀が作られた(用いられた)のは概ね平安時代中期から室町時代前半で、反りが深く刃渡りは75cm以上と長いものが多いです。打刀が主流になるのは室町時代後期、即ち戦国時代以降で、反りが浅く、刃渡りは60cm~70cmと太刀に比べて短いものが多いです。

〈 上:太刀(鎌倉期) 下:打刀(江戸期) 〉

ではこの違いは何から生まれたのでしょうか。それはやはり合戦形態の変化が大きく影響していると言われています。室町時代前半までの合戦において、飛び道具は弓矢、白兵戦では太刀と薙刀(なぎなた)が主力兵器でした。そのため太刀は長く、また騎馬武者が片手で扱いやすいよう反りが深く作られていました。一方戦国時代になると飛び道具は鉄砲、白兵戦の主力兵器は集団歩兵戦に適した槍(やり)に移り、刀は槍や鉄砲が使えなくなった際の補助兵器となり、あまり使われなくなりました。そのため携帯に便利なよう短くなり、歩兵が両手で使うのに適するよう反りが浅くなりました。その打刀の特徴は後の江戸時代にも継承されます。太平の時代に長い刀は正に「無用の長物」でしたから。

つまり、「太刀は始めから構える合戦兵器」、「打刀は緊急時に抜く護身武器」ということです。両者の使用目的・方法には大きな違いがあるのです。

打刀を刃を上にして腰に帯びるのも、いざという時にサッと抜くのに便利だったからでしょう。太刀が主流であった時代から合戦時の予備武器や平時の護身用として短い刀を腰に帯びる習慣はあったので、それが長刀に変遷したと考えられます。

そういえば自分(吉見)は若い頃10年ほど居合(いあい)の道場にも通っていました。居合では打刀を腰に帯びた状態からサッと抜いて攻防の形を行います。剣道がはじめから刀を抜いて戦う「立合(たちあい)」であるのに対し、まだ刀が鞘の内にある状態から始まるのが居合の特徴です。居合にはいろいろと疑問点もありますが、「打刀が緊急時の護身武器」と考えれば、その使用方法は理にかなっていると言えるのでしょう。

余談ですが、自分は学生の頃に毎年武者行列に参加して、よく悪ノリして居合を抜いていました(刀は木製の作りのもです)。ちょっと前までは甲冑姿で居合というのは変だったよなーと過去の自分を笑っていましたが、あながち間違いではなかったな、と今は思っています。

合氣道でも剣技を稽古しますが、開祖が「太刀」の技か「打刀」の技かに言及した話は聞いたことがありません。しかし、構える前に木剣を左手で刃を上に向けてを持つこと、開祖が主に修業・研究し、合氣道のルーツとなっている柳生新陰流剣術、鹿島新当流剣術が戦国時代以降に成立した打刀の剣術であることなどから(鹿島新当流には太刀の時代の面影も強く感じられますが)打刀を想定した剣技と考えてよいかと思います。打刀を腰に帯びた開祖の写真もあります。

ところで、ここまでにも何度か出ていますが、合氣道では刀を「剣(けん)」と言い表します。一般に言う木刀も「木剣(ぼくけん・ぼっけん)」と呼んでいます。刀と剣は本来大きく異なるものです。太刀にせよ打刀にせよ、刀は刃に反りがあり「切る」ことを目的とした武器です。一方で剣は反りがなくまっすぐな姿で「突く(刺す)」ことに適した武器です。剣の刃は両刃と片刃の両タイプがあり、片刃の剣は「直刀」と呼ぶことも多いです。

〈 8世紀の剣(直刀) 〉

日本では弥生時代から平安時代半ばごろまでは剣が使われていました。例えば平安時代初期の武人で征夷大将軍として東国平定の任に当たった坂上田村麻呂のものと伝えられる剣が残っていますが、これは片刃で刃渡り90cmを超える長剣です。古墳時代ごろまでは両刃の剣も使われていましたが、その後の飛鳥時代ごろになると片刃の剣が主流になるようです。田村麻呂より200年ほど前の聖徳太子佩用と伝えられる剣も片刃で刃渡りは60cm余りです。

( ※矛は刃に長柄つけた槍や薙刀に近い武器 )

本来、剣と刀はその操法が大きく違い、例えば中国武術では両者の技法をハッキリ区別して伝承しています。西洋のフェンシングは突きの攻防を主とした剣の武術に分類できます。日本ではからおよそ千年前の平安時代以降は剣が全く使われなくなったため剣術の流派の成立が始まる400年以上前)、おそらく純粋な「剣」の技法は伝承されていないと思われます。あるいは古代から伝承される儀式、神楽、舞踊などにはその名残があるかもしれません。神仏の画像には歴史上途切れることなく剣の姿が現されています。

〈 「剣」を持つ不動明王像 〉


ではなぜ合氣道で「剣」という言葉を使うのでしょか。一般にも「剣道」、「剣術」とは言いますが、木刀を木剣ということは少ないと思います。古武道の中には木刀を「木太刀(きだち)」と呼ぶ流派もあります。

現在、一般的に使用されている木刀の刃渡りは約75cmでやや長いものの反りは浅く、打刀を模したものです。戦国~江戸時代の打刀がこれより10cmほども短かったと思うと武器としてはかなり頼りないと感じてしまします。やはり打刀は戦闘用というより護身用の武器であったと思われます。

〈刃渡り約75cmの木刀を振り下ろした状態〉


剣道も打刀での攻防を想定した武道ですが、竹刀(しない)の刃渡りは約90cmと打刀としてはかなり長大です。一方で剣道の基本を学ぶためとして戦前に制定され、現在でも昇段審査の課題になっている「日本剣道形」では刃渡り約75cmの木刀か模造刀が使用されています。何故どちらかの長さに揃えないのでしょうか。謎です。

重量は刃渡り75cmの刀なら900g~1kg、木刀は500~600g、刃渡り約90cmの竹刀は500g前後です。

合氣道で「剣」という呼称を用いる理由は開祖の信仰に基づくのかもしれません。開祖は日本古来の神々を深く信仰していました。「この武道(合氣道)は神様から授かった武道だ」という言葉も遺されています。古事記、日本書紀に見る神話の時代は弥生時代から古墳時代に重なると考えられる時代であり、それは正に剣の時代です。古代の古墳からは多くの剣が出土しており、神話にも「草薙剣(クサナギノツルギ)」「天叢雲剣(アメノムラクモノツルギ)」という言葉が現れます。


開祖の心には常に神代(かみよ/じんだい)の世界があり、開祖にとって「剣」とは人を殺傷する凶器ではなく、己の心身を磨き、清め、世の邪氣を祓う正に「神剣」でした。合氣道の剣技を稽古する上で、それは決して忘れてはならないことです。でなければ、剣術はすぐに人を殺傷することを目的とした戦乱の時代の姿に戻ってしまいます。それは「合氣道の剣」ではありませんから。

世の中には合氣道を安易に他の武術と一緒にしまう方々が少なからずいますが、開祖は何を目指し古武術から離れて合氣道を生み出したのでしょうか。合氣道を稽古する人間は、このことを必ず考えなければならないはずです。表面の、それも一部分のみをすくい取ってあれこれ考え工夫してもそれは「合氣道の研究」をしたことにはなりません。

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~ 余談です ~

うちの近所の高台には1400年代末~1500年代半ばごろに「蒔田城(まいたじょう)」というお城(熊本城のような立派なお城ではなく、砦兼お屋敷って感じでしょう)があったそうです。ちょど太刀から打刀への移行期です。城主は「吉良(きら)家」、あの忠臣蔵で悪名高い吉良上野介の先祖から生まれた家系です。江戸時代は旗本となって蒔田家を名乗っていましたが吉良上野介の家系が途絶えた後はこちらが吉良本家になりました。なぜわざわざ悪名を負った吉良の名を・・・とは思うでしょうが、吉良家は室町幕府将軍・足利一族の名門なので名前に魅力があったのでしょうね。それはさておき、城跡の周りをここで弓を引いたのかな、ここで太刀を振るったのかな、ここで酒を・・・ごほん、などと歴史に思いを馳せながら散策するのは楽しいし、武道研究の足しにもなるんじゃないかなー・・・と思っています。あとよく野生のリスに会えます。。リスかわいいですっ!!

別の場所にいた子ですが…


合氣道真生会川崎高津道場 吉見新

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